瞠目した歌詞

幸せは途切れながらも続くのです

 

これはスピッツ「スピカ」の歌詞の一部。上記に挙げた歌詞は瞠目すべき歌詞である。幸せは長くは続かない。でも、そこで幸せが終わることでもない。まさしく「途切れながらも続くのです」だ。これ、人生の真理だ。(「スピカ」は歌詞も素晴らしいのだが、メロディも素晴らしいのは言うまでもない。名曲なのでぜひ聴いてみてほしい。)

 

さて。

 

学生時代、大変お世話になった教授が退官なさるという。ご本人は自覚なさっていたかは知る由もないが、学内でもスパルタで有名な教授だった。ゼミは「人文科学なのに体育会系」と陰でウワサされていたほどキツかった。そんなゼミの末席の末席の末席を汚していた私であるが、教授からは厳しくも温かいご指導を多く賜った。教授の学恩には感謝しかない。なぜならば、現在の私の半分以上形成する資料や文献への接し方は、教授のご指導があってからこそ。(もちろん、その接し方が拙いのは私の責任であって、教授によるものではない。)しかし、私がもっと感謝しているのは「人として」「女性として」どのように生きるかを示していただいたことだ。ここで注意していただきたいのだが、教授から直接「あーだこーだ」言われたことは何一つないこと。教授は背中ですべてを語られていた。学問に対しての言葉は多く話されていたが、それ以外は決して多くを話されはしなかった。自分の可能性を信じていた学生時代。私は「幸せ」だった。現実に打ちのめされ「幸せ」が途切れたこともあった。でも、あの頃とは違うかたちだけど「幸せ」は細々と、そして途切れながらも続いている。

ホントに久しぶり

みなさまお元気にお過ごしでいらっしゃいますか?

 

約一年ぶりの更新。

 

ホントに久しぶりなんだけど、これはひとえに私の自堕落さと不真面目さに問題がある。のであるが、また体調を崩していたのである。私は2020年、2021年と二年連続で手術をした。嘘のようなホントの話。つーか、唯一の私の本音が言える場所で嘘などつかぬ。私を知っている人ならば驚くのだが、ガタイはいいのだが体調を崩しやすい性質なのだ。まぁ、入院手術は生来の病気ではなくて、腫瘍ができてしまって摘出したのだけれどね。これは防ぎようがないので、静観している。半年に一回ペースで検査。面倒くさいけれど、それも仕方がない。

 

2018年や2019年はアホみたく自分探ししてたけれど、現在はもうそんなことしていない。40年以上自分と付き合ってきたのだ。いい加減、自分と「仲良くなる」術を身につけた。それは一体なんなのかを論理的に説明できればいいのだけれど、なかなか難しい。でもひとつ言えることは「I'm OK. You're OK」ってな感じで生きているということか。荒れた気持ちが和らぐ魔法の言葉である。

 

2021年がもう終わろうとしている。2022年はどうなるのか。誰もわからない。そもそも、わからなくてもいいんじゃないの?とすら思っている。なるようになる。この一言に尽きる。

久しぶりのブログ

2020年も11月に突入した。全くブログを更新しなかったのは、忙しかったのもあるが、体調を崩したことことも理由に挙げられる。アラフォーなのに体調を崩して恥ずかしい。しかし、まぁ、現在は元気なのでこうしてブログを書いている次第。人間は健康が一番だ。

 

そうそう。以前のブログでは精神が追い込まれていることを書いたが、今はそれが落ち着いている。凪のように、と述べるのは大袈裟だが、一時と比べると嘘のよう。よくよく考えてみたら、それは断捨離をしたからではないか、と。心当たりはそれくらいしかない。過去の「遺物」を手放してみたら、嘘のように心が軽くなったのだ。20年以上のわだかまりにも決着がついた。遺物に関連するものは全てサヨナラした。それでわかったのは、私を苦しめていたのは私だったということ。自分がいかに小さく狭い世界で生きてきたか。自分を許すことはまだ苦手だが、許すことで救われることがあることを実感している。

取り憑かれたかのように

精神が不安定である。

 

町医者に行っても「毎度のことだね(笑)」と。それをどうにかしてもらいたくて診てもらってるのだが、どうも私の本気度がいまいち伝わっていない。

 

賢兄ならばもうおわかりのとおり、私が意味もなく精神的不安定な状況に陥ると、「答え(っつーものは何もないのは十分承知している)」を探したくなるのだ。その場合、私の方法としては、「読書」が挙げられる。なので、取り憑かれたかのように本を読んでいる。気づいてみればスマホなんぞ手にとっていない。家でも会社でも電車の中でも本を片手にとっている。我ながら極端だな。

 

以下、箇条書きに記してみようか。いずれ読書感想文を書こうと目論んでいる。

 

 

笑えるものもあったが、現実社会の厳しさに心痛んだものもあった。しかし、読んで後悔したものはない。むしろ読んでよかったものばかりだ。

 

でも、なぜか心の穴は埋められない。もっともっともっと本を読まなくては!嗚呼、でも、一生懸命っていうのは私のヌルく生きるという主義に反することで……。どうすればいいのか。

 

それを解消するために、また、本を手にとっているバカな私である。見えない何かに急き立てられている。

考えさせられる

ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」読了。

 

本書の帯には次の文が記されている。

 

英国で「ぼく」が通うイカした元・底辺中学校は、毎日が事件の連続。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり……。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と、パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。私的で普遍的な「親子の成長物語」。

 

私の説明が不要なくらい本書の内容がまとめられている。この帯の文言に尽きるのである。もちろん、たったこれだけで語られるだけの内容かと断ずるのは早計だ。11歳の「ぼく」が、現代日本でも問題視されている貧困・移民・差別・LGBT・偏見・教育などを、日常生活で直面し悩み、考え、戸惑いながらも前へ進む姿は、特筆に値する。また、「ぼく」に絶妙な距離感で寄り添い、見守っている母ちゃんの姿にも好感が持てる。本書を読みながら、私も「ぼく」が直面する問題を考えさせられた。なお、現在も連載されているルポでもあり、続編も期待できるのではないか。

 

私は、個人的な理由で、本書に驚愕した。それは、「ぼく」と母ちゃんの関係性である。1113歳くらいの男子でも、母親にあんなに学校のことを話したり、個人的なことも話せるのだろうか。ノンフィクションといえども、多少脚色していると理解しつつ、つい、自分と比較し戸惑った。それは、あまりにも私と亡母のそれとは違うから。私は9歳で弟ができ、それ以降は「子ども」として亡母にあつかってもらえなかった。しかし、決して「大人」でもない。弟の世話をし、家事をする「子ども」と「大人」の中間な、表現しようのない不思議な存在。そのようなものだから、学校のことも、自分の考えも亡母に積極的に伝えた記憶は、ない。

 

「ぼく」と母ちゃんのような、こんな親子関係ってあるのか。

 

いろんな意味で考えさせられた。

オシャレになりたい!

二神弓子「骨格診断&パーソナルカラー 本当に似合うbestアイテム事典」

 

※本の分類として「実用書」にあたるのだろうか。実用書で「読書感想」ってアリなのかどうなのかわからないが、読んだので書いてみる。

 

女性の体型は、おおよそ「ストレート」「ウェーブ」「ナチュラル」に分類されるという。詳細は本書に譲るが、3タイプそれぞれ「似合う」ものと「似合わない」ものがあり、あか抜けてオシャレな着こなしをするためには3タイプの特徴を把握する必要がある。これだけでもオシャレ度70は軽く越すかと思われるが、本書のスゴいところはパーソナルカラーもあわせて取り入れ、さらに具体的なアイテム(洋服、靴、アクセサリー、バッグ等)を挙げ、コーディネートも提案していることだ。オシャレとは感覚的なものではなく、理論で成り立っていることを説いている。

 

「オシャレになりたいんだけど、どうもオシャレ偏差値が低いので、どこをどうやったらいいのかわからない」という人にはうってつけの本である。

 

いやー、勉強になりました。極度の妄想癖がある私は、理想の女性像を創りだし、それに向かい頑張っているのに理想が高すぎて到達できないジレンマを抱えていた。「似合う」洋服と色を理解し、手に届くような理想を掲げることが、オシャレの近道であることを痛感した。また「オシャレ偏差値」とは、センスが良い洋服ばかり着ている選ばれし者だけが獲得できるものとばかり思っていたが、非常に論理的に考えることができるものとわかったのも大きな収穫。早く出会いたかった本である。

 

理論はわかった。あとは実践あるのみ。タンスの肥やしを総動員して、とりあえずできるオシャレを実践してみたい。本格的始動は、春物購入からだな。頑張るぞ。

よむよむ

立て続けに本を読む。

三浦しをんの本は相変わらず面白い。本書は三浦しをんの書評集である。膨大な古今東西の本を読んでいて、素直に「スゲーな」と思ってしまう。私は一時期集中的に三浦しをんの本を読んでいて、彼女の語彙力豊富で、繊細な心理描写を描いている小説も、爆笑エッセイも好きだ。その根底にあるのは、三浦しをんのとてつもない読書量が関係しているのだと、痛感した。ちなみに、本書はどこから読んでもokである。なにせ書評集だから。

 

齋藤孝の本は……。正直なところ苦手である。大学教授なので、研究者であると同時に教育者でもある齋藤孝。笑顔で「もっと勉強しろ」と真綿で首を締められるような、そんな圧を私は齋藤孝に常々感じている。なので、本書も苦手であった。んじゃ、読むな、と齋藤ファンに怒られそうだが(ファンはいるのか?!)、手にとってしまったのだからしょうがない。読書する人としない人は確かに存在する。読まないより読んだほうがいいに決まっている。だからと言って「読書はすごいんだぜ」とは私は思わない。たまたま、私には読書が向いていた、というスタンスである。あまり非読書人(この言葉自体が差別的であるな)を責めるのもどうかと思う。人には向き不向きがある。