私と母親

「死人に口なし」なので、一方的に亡母への攻撃はフェアではない。だが、言いたい。

 

兄と弟は自由に育てていたが、なぜか私に関しては教育ママだった母。テストで80点を取っても怒られ、100点を取って当たり前だった。小学生だった私は「虫」という漢字が書けなくて、母から殴られ鼻血を出した記憶もある。あれは、痛かった。

 

年の離れた弟が誕生したときは、私が「母の代わり」に粉ミルクを与え、オムツの替えをしていた。おんぶ紐で弟をおぶって「寝させるまで帰ってくるな」と母は言い放ち、冬の公園へと家から追い出されたこともあった。もちろん、弟の世話で友達と遊ぶこともできなかった。

 

母にはむかうのはもっての外で、一度はむかうものなら半年無視をするのも当たり前だった。今なら児童相談所や学校の担任に相談することも考えられるが、幼かった私は自分を責めた。「私が悪い娘だから」と。

 

髪を茶色に染めたときも、母は「お父さんに、私が怒られる」と髪を引っ張りながら怒鳴ったこともあった。実際、父は私に対して「イメチェンだな(笑)」と怒ることもなかった。もちろん、母にはその後、無視された。

 

大学生になった頃は、お付き合いする男性にさえも口出しをするようにもなった。(私が男性と付き合うということ自体にいい顔はしなかったけれど)ハイソ大学の男性ならばよいが、バンカラ大学の男性は、母の美学により反対されたこともあった。ちなみに、夫は九州X県出身でバンカラ大学を卒業している。結婚を視野に付き合うと両親に紹介するとき、父は賛成をしてくれたが、母は自室から出てこなかった。「あんな下品な大学で、しかも九州出身だなんて日本の果ての人間じゃないの」と叫んでいた。実に偏見に満ちた意見である。

 

母が入院し、私は毎日お見舞いに行った。意識が混濁している母に「自分の名前は言えるか」と何度も問い、「うるさい!」との応えが。それが最後の私とのやりとりになった。兄や弟にはそんなことは言わなかったのに。

 

今から思うと、母は私にある意味で甘えていたんじゃないか、と。いろんなストレスの捌け口を私にぶつけていたのかな。私からしてみれば、たまったものではないが、それ以外に母は生きることができなかったのではないか。

 

私は、母が私に対してしてきたことを忘れない。でも、許していてる。もう、母が死んでしまった以上、恨むことに意味はないからね。どうか天国で安らかに過ごしてほしい。

 

なんだか、いつも以上に自分語りである。恥ずかしいな。